堀辰雄の野尻湖訪問
堀辰雄といえば、『美しい村』(昭和9年、1934年)や『風立ちぬ』(昭和12年、1937年)で有名な、戦前から戦後初期の作家だ。彼が軽井沢や富士見と縁が深いことはよく知られている。作家自身の分身と思しき主人公が絵を描く少女と知り合う「美しい村」とは、軽井沢の「外人」別荘街であり、続編の『風立ちぬ』で結核を病むこの女性の看病を兼ねて住むサナトリウムは富士見にある。有名な国立療養所だ。軽井沢のアカシアの森の描写やチェコスロバキア公使館の別荘からバッハのト短調の遁走曲(フーガ)が聞こえてくるシーンなどはかぎりなく美しい(当時のチェコの置かれた危機的状況を考えると悲痛な演奏だったのだろう)。八ヶ岳山麓の雲の動きや秋の時雨の描写も、あの地域の自然らしく荒々しいと同時に繊細きわまりない。だが、その堀辰雄が野尻湖ともそれなりに縁があったことは意外と知られていない。
彼は昭和15年(1940年)の8月も終わる頃に軽井沢の小屋から野尻湖に遊びに来ている。画学生の彼女は結局サナトリウムで亡くなり、その傷心が癒えた昭和13年に室生犀星の媒酌で結婚した夫人同伴だった。ちなみにこのご夫人は堀辰雄が昭和28年に亡くなったあとも2010年に九七歳で世を去るまで、主として軽井沢で過ごされていて、堀辰雄や軽井沢についての珠玉の文章を書いておられる。旧軽井沢の万平ホテルに向かう森の中の交差点に誰からもわかる形で「堀」という表札がかかっている庭の広いお宅だった。
軽井沢の話をしても仕方ないので、野尻湖に戻ろう。『晩夏』(もともとは『野尻』、堀辰雄全集を探さなくても、ネットの青空文庫で読める)と題された短編はこうはじまる。
「けさ急に思い立って、軽井沢の山小屋を閉めて、野尻湖に来た」。きっかけは、軽井沢のある店でほんの思いつきで、旅行バッグを買ったことだった。朝食のマドレーヌの味をきっかけに、過ぎ去りつつある自分たちの時代をはるかに思い起こす『失われた時を求めて』のプルーストの手法の、まあ猿真似だが、野尻湖まできてくれたのだからいいとしよう。しばらくすると次のような文章に出会う。
「そんな急な思いつきで、妻と二人で、旅に出て来たのだった。最初は、志賀高原、戸隠山、野尻湖なんぞとまわれるだけまわって、軽井沢ももう倦あきたので、来年の夏を過ごすところを今から物色しておこうと思った」。
ひょっとしたら野尻湖周辺が今の軽井沢のようにセレブとミーちゃんハーちゃんが群れ集う場所になっていたかもしれないことはよく指摘される。1960年代や70年代に軽井沢の俗化を嫌った外国人たちが、野尻湖に移りつつあるとはよく言われた話だ。国際村の宣教師たちは何年かにいっぺん休暇で故国に戻る。その空いた別荘を低価で貸して、村の運営費にあてるという巧みな運営は、今でも続いているが、そこに東京駐在の外交官やジャーナリストが目をつけたのだ。しかし、この文章を読むと(「軽井沢ももう倦あきたので」)、すでに戦前から野尻湖物色がはじまっていたようだ。だが、その軽井沢からも外国人は現在すっかり姿を消している。航空運賃の庶民化にともなって、国や会社から費用の出る正規の休暇でなくても夏は本国に戻れるからだ。
それでは、堀辰雄夫妻は、野尻湖に来てなにをしてどこに泊まったのだろうか。この短編にはその一部始終が描かれている。柏原の駅から野尻湖までは今と同じに「乗り合い」バスがあったようだ。このバスで野尻湖に向かう途中で、休暇が終わって駅の方に向かう外人の家族と行き違ったが、彼らは牛の引く荷車に家財道具を積んで歩いていた。さすがにのんびりした戦前の時代である。
湖畔の船着場でまずは宿探しだ。夏の終わりだ。たいていの宿はもう閉めていそうだ。
「人に訊いてきたレエクサイド・ホテルとか云う、外人相手の小さなホテルだけでも明いていて呉れればいいが――と思って、湖畔で乗合から降り、船の発着所まで往って、船頭らしいものを捉えて訊くと、「さあ、レエクサイドはどうかな?」と不承不承に立って、南の方の外人部落らしい、赤だの、緑だのの屋根の見える湖岸を見やっていたが、「あの一番はずれに見える屋根がホテルだがね、まだ旗が出ているようだから、やってましょう。――お往きなさるかい?」
このあと二人は、モーター付きの小さなボートでその宿のところまで運んでもらう。どうやら国際村の湖畔道路はまだなかったようだ。短編の後半でふたりは、そこの砂浜を歩いていることからも想像される。国際村のはじというと今では砂間館があるが、どうやらそれよりは少し前の方で岸について、坂道をすこしあがったところにこのホテルはあったらしい。彼らは「西側の湖水に向いた」部屋は西日が強いので、山側の部屋を取ったとあるが、ベランダには出れたようだ。ベランダからの風景にはこうある。
「地図と見くらべながら、右手のが斑尾山、それからずっと左手のが妙高山、黒姫山、というのだけが分かった。それからいま此処からは見えないが、戸隠山、飯綱山などがまだ控えている筈だった」。
さて、ここからが謎解きだ。船着場から見える宿で、そのベランダから斑尾、妙高は当然として、黒姫まで見えるという場所は、国際村の下の方にはたしてあるのだろうか。さすがにこの謎解きはネットで盛んなので、興味のある方は、検索すればある程度のことはわかる。外人の姉妹も泊まっていて、晩飯のときはアヴェ・マリアやワルツのレコードがかかるという当時としてはハイカラのこのレイクサイドホテルはのちに作家伊藤整の別荘になったらしい。今は取り壊されているようだが、ネットで活躍している探索マニアの意見も参考にした小生の推測では、国際村の艇庫あたりから上に少し上がったところにあったようだ。
滞在中は、二人で国際村を散歩する。今も歩くといいところだが(ちなみに真ん中の道路以外は今でも舗装されていない。散策が前提の作りだ)、堀の描写もいささかの西洋趣味とあいまって、うまい。
「こうやって人けの絶えた外人部落をなんという事なしにぶらついていると、夏の盛り時は見ていずとも、何か知ら夏に於ける彼等の生活ぶりがそこいらへんからいきいきと蘇ってくる。――人が住んでいようといまいと、いつもこんな具合に草が茫々と生えて、ヴェランダなど板が割れて、いまにも踏み抜きそうな位に、廃園らしい感じだが、そんな中から人々の笑い声がし、赤ん坊がハンモックに寝かされ、犬が走り、マアガレットが咲きみだれ、洗濯物が青いのや赤いのや白いのや綺麗きれいにぶらさがっている。夕方になると、上の方の別荘からレコオドが聞え、湖水の面にはヨットが右往左往している。そして、このウツギの花の咲いた井戸端なんぞには、きっと少女が水を汲みに来て快活そうにお喋しゃべりをする。そんな愉しそうな空想があとからあとから涌わいて来る。それをまた子供のようにはしゃいで一々妻に云い訊かせながら歩いている私は、何遍となく間違えて人の家へはいって往った」。
ふたりはまた、YWCAの方にも行ってみる。ヴォーリスの設計になる今でも存在する施設だ。夏のキャンプファイアーの燃えかすの炭化した薪が雑木林のあちこちに見える。「これはボンファイアをした跡だわ」妻はしきりに自分の女学生時代の事を思い出しているらしく、いくぶん上ずったような声で私に云った」。どうやら当時は、ボンファイアといったらしい。戦争に向かう時期
の日本としては幸福な青春を送った金持ちのお嬢さんのようだ。残念ながらふたりは桜ヶ丘や美山には来てくれなかったようだ。まだ開発されていなかったのだから、仕方ないが・・・。
だが、8月の終わりの野尻湖は、曇天や霧の日が多い。彼らが滞在した4日ほどのあいだも、全体が霞んでいる上の方に斑尾や妙高の頂上が顔を出しているような天気だったようだ。寂しい。堀はニーチェが作ったZweisamkeitというドイツ語を書き付けている。ツヴァイザームカイトと読むが、孤独Einsamkeit(アインザームカイト)に発する言葉だ。Ein(アイン)は一人という意味。それに対してZwei(ツヴァイ)はふたりということだ。「ふたりぼっち」ということだろう。彼は「いわば差し向かいの淋しさと云ったようなもの」とさすがの訳をつけている。
そういう寂しい日のホテル、今ならベランダで、1日スマホいじりだろうが、「古き良き時代の」上流文士とその奥様は、ベランダで読書だ。
実は、ここからがこの短編の肝心なところなのだ。堀辰雄は、この滞在中に霧の野尻湖を望むベランダで、ドイツの閨秀作家アネッテ・ドロステ・ヒュルスホフ(1797-1848)の短編作品『ユダヤ人のブナの木』を読んでしまうのだ。そして毎日、読んだところまでの筋書きを、宿から見える斑尾の風景や、同宿の神戸から来ている外人姉妹のおしゃべりの観察などと混ぜ合わせて記している。
この作品は、ドイツでは今でも最もよく読まれている短編小説だ。貴族の令嬢だったこの作家は晩年をドイツとスイスの国境のボーデン湖畔のお城で過ごした。それこそレイクサイド・キャッスルだ。その寂しい生活の中で故郷の北ドイツのヴェストファーレン地方(刃物で有名なゾーリンゲンなどがある地方)の田舎の村の実際にあった恐ろしい話をネタに書いたものだ。この地方は、マルクスの『資本論』にも出てくるが、当時は貧困そのものだった。夜なべをして麻布を織っても生活に、いや暖房の薪に事欠く時代で、今のドイツの豊かさからは想像もつかない。そういう中で森林の盗伐、森林取締官と盗伐団のヤクザな親分との葛藤(取締官も実は一味だったらしい)のなかで、主人公フリードリヒに借金の返済をせまるユダヤ人の金貸しがブナの木につるされて殺されていた。その晩に二人の若者、つまりこのフリードリヒとその友人のヨハネスがいわば国破りで姿をくらます。しかし、別の郡で、アーロンというユダヤ人がユダヤ人同士の争いで殺人を犯しと自白したので、人々はよくわからないままに一件落着としていた。ところが、何十年かして友人のヨハネスが、老いさらばえて戻ってくる。傭兵でトルコに売られていたとのこと。戻って来た老ヨハネスが城主の御用聞きとして落ち着いた生活をはじめたと思ったら、彼はまた姿をくらます。そして数日後あのブナの木に、戻って来たのとは別の、一緒に姿をくらましたフリードリヒが自殺なのか、ぶら下がっているのが発見される。
実は、最初にユダヤ人が殺された時に、近郷のユダヤ人たちがお金を出し合って、このブナの木を買い取った上に、そこにヘブライ語で訳の分からない呪文が書かれていた。大部分の読者にはもちろんその言葉の意味はわからない。最後に作家がこの言葉をドイツ語に訳して話が終わる。堀辰雄の訳では「此処に汝の近づく時は、嘗て汝が我に為せし事を汝は汝自身に為さん」。最初のユダヤ人殺人は誰の手になるのか、最後に死んだのは、本当に自殺なのか、また行方不明になった老人ヨハネスは?さまざまな推理を誘い、本当のことはわからない。なかには、その後のドイツの歴史を考えて、ユダヤ人問題を論じる人もいる。
しかし、堀辰雄は、今の私の説明などよりはるかに適切に詳しく、毎日読んだところのあらすじを紹介してくれる。この文章を書くにあたって、小生も50年ぶりにこのドイツ語短編を取り出して読んでみたが、場所を北ドイツの代わりに南ドイツとしている間違いを除けば、堀の要約の適切さ、背後にある貧困や村の人間関係の紹介はうまいとしかいいようがない。小説の中の貧困と、散歩の途上で行き違ったキコリと思しき国際村周辺の地域の老人の様子とが重ね合わされている。劇中劇の登場人物が大枠の劇の中に出でくるーー今ではテレビなどで使われる手法だ。
堀は主としてフランス文学を読み、そこから小説の手法を学んでいたようだが、ドイツ語も苦労せずに読めたことは、このあらすじの紹介からもわかる。たいしたものだ。新潮文庫の中村真一郎の解説によると東大時代、エンゲルスの『反デューリング論』(原文はドイツ語。日本ではこの抜粋の『空想より科学へ』が知られている)の読書会には、フランス語訳も持参してきたというキザなお兄さんだったようだ。
こうして四日がたち、夫妻は軽井沢に戻る。「翌朝はとうとう霧雨になり出していた。山々も見えず、湖水は一めんに白く霧っていた。丁度好い引上げ時だと思って、帰りの自動車を帳場にいた男に頼んだ。なんでも例の娘達もその晩
の夜行で一人は神戸へ、一人は横浜へ立つ事になっているので、いよいよあすから此のホテルも冬まで閉じるそうだった。此のホテルには電話が無いので、ちょっと自動車を頼んで来るといって、その男は霧雨のなかを自転車で出かけて往った」。
病気がちの若い作家とその妻の静かな野尻の夏がこうして終わる。野尻湖の風物を描いた作品のなかに遠い国の別の作品の紹介を書いて。荷車や、電話のないホテルや「その晩の夜行」は、時代を感じさせる。また二人が菅川村の方に「モオタア船」でいきたいと思った時に、船宿のおかみさんが、主人は昨日から向こう岸の婚礼に行ったまま帰ってこない。「あすの朝早く出征する方を向う岸へ渡す約束がしてあるのだが、それに間に合うように帰って貰わなければ本当に困ってしまう」と言う。そのために二人は湖上に船で出れないのだが、「出征」には日華事変の真っ最中だった昭和年を感じさせる。その兵隊さんは戻って来たのだろうか。
次回は堀辰雄の野尻湖訪問の数年前の1937年8月1日に野尻湖から故国に向けて書かれたフランスの世界的に有名な大学者の一通の手紙を紹介したい。
執筆:三島憲一氏
ライブカメラ
野尻湖グリーンタウン神山ロッヂに設置されたカメラからの3分ごとのライブ映像
美山ライブカメラ
野尻湖グリーンタウン美山ロッヂに設置されたカメラの映像
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