【黒姫童話館とミヒャエル・エンデ】 執筆:三島憲一
ドイツの童話作家ミヒャエル・エンデ(1929-1995)の『モモ』を読んだ方は多いだろう。あるいは、読んでいなくても、名前ぐらいはどこかで聞いたことがあるはずだ。岩波少年文庫に納められているこのメルヘンはなんと三百万部に達しているそうだ。
町外れにある大昔の円形劇場の廃墟に住み出したモモは、孤児院の窮屈な生活からの脱出者。彼女の周りに集まってきた居酒屋のニノ、観光ガイドのジジ、道路掃除夫のペッポ、そしてたくさんの子供たちが、灰色の服を着た時間泥棒と戦う物語は、せかせかと生きながら、決して豊かな生活になれず、ますますせかせかせざるを得ない現代人への警鐘だ。ドイツで出版された1973年以降、子供にも大人にも読まれ続けている。
知っている方も多いでしょうが、なんとこのエンデの遺品のほとんどが黒姫童話館に納められているのだ。
黒姫童話館は、1991年のオープンから30年、グリーンタウンのメンバーで行かれた方も多いはず。黒姫スキー場に向かって左側の小高い丘の上に立つ、一見ロマネスクの修道院みたいな(しかし、決してロマネスクではない)、それなりに優美な建物だ。入り口の前の傾斜地には、石が段状に按配され、モモの住む円形劇場がミニアチュア風にセットされている。
そのあたりから振り返ると、左上に黒姫山、正面に妙高山、右に顔を回せば斑尾山、そして野尻湖 の谷が広がる。夏空に雲が流れ、麓にはコスモスが咲き誇る。そしてすがすがしい高原の風。
かつては牛が草を食んでいたスキー場のあちこちには森が見え、どこかバイエルンのオーストリア国境地域を思わせる。バイエルン出身のエンデがこの風景を気に入ったのもわかろうというものだ。
中に入ると島崎藤村からはじまって信州にゆかりのある童話作家(藤村が童話を書いたことがあるとは知らなかった)、例えば塚原健二郎や坪田譲治に関する展示もあれば、この童話館創設のきっかけにもなったいわさきちひろや松谷みよ子のスペースもある。
しかし、なんといっても圧巻は、ミヒャエル・エンデを偲ぶ展示だ。彼の作品『鏡の中の鏡』をモチーフにしたらしい合わせ鏡の迷路を通って目がくらくらしながらエンデの展示スペースに入ると、そこには詳しい年譜をはじめ、幼少時の写真、高校の卒業演劇のスナップ、『モモ』や『ジム・ボタンの機関車大旅行』『果てしない物語』などの数多の作品、挿絵のいくつもの原画、使っていた文房具などじつにさまざまな品物が展示されている。壁にはところどころにモモのシルエットがかかっていて、いったいこの館内にはなんにんのモモがいたことでしょう、というクイズを入り口の方から戯れに宿題としてもらうこともある。
なかのカフェーも「時間どろぼう」という名前だが、これは時間泥棒への戦いを励ます意味でつけたのだろう。
モモの周りの人々が次から次へと時間泥棒の巧みな誘いに引っかかる。あなたの人生に残っているのは、あと何億何千何百万何千何十秒、道路掃除にかける時間を一回あたり二百秒減らすだけで、人生これだけ儲かりますよ、とまるで保険の勧誘でもあるかのように。そして時間倹約の契約書にサインすると、その時間は勧誘員の灰色の男たちの時間貯金に回され、かれらはこうして詐欺的に略取した時間を食べて生きることになる。契約書にサインした人たちは、せかせかと暮らしだし、仕事の能率はよくなるが、なんとも潤いのない生活となる。その毒は彼らの周囲にも及ぶ。
例えば居酒屋のニノだが、会計のときに客と無駄話をして仲良くすることもなくなり、日毎に無愛想になる。ゆっくりした郊外の飲み屋だった彼の店は、時間倹約のおかげで儲かりはじめ、能率中心のファーストフードの店へと模様替えし、客は盆を持って並び、思い思いにバイキング形式に皿に食事を取り、最後にレジで支払うようになる。途中でおしゃべりでもしていようなら、後ろの客から「早くしろ」とどつかれる。
だが、そこに胡散臭さを嗅ぎ取ったモモは仲間を募って灰色の男たちとの戦いを試みる。彼ら、つまり灰色の男たちもモモを捕まえて「処分」しようとする。他の人々は皆、勧誘に負けるのに、モモだけは負けないからだ。そしてモモが持つ不思議な特性、つまり誰も彼女に本音を喋ってしまう特性に負けて、灰色の男の一人が、時間泥棒の計画をしゃべってしまう。時は金なり、お前たちから奪った時間で俺たちは生きているのだ。表向きはお前たちの生活の能率化のようなことを言ってるが、本当は俺たちのためなんだ、と。
現代の生活がますます便利になるのは嬉しいが、それに応じて自分の時間が減っているだけだ。いったいどこかにわれわれのあくせくのおかげで密かに得をしている連中がいるのではないか、などと考えたことのある人は多いはずだ。われわれの生活を忙しくしているシステムは、銀行であったり、コンピュータ技術であったり、お役所や工場であったりするかもしれない。長野が新幹線につながってうれしがっているうちに、昔なら出張で宿泊してくれた人が今は日帰りで帰ってしまう。長野の商店街は斜陽化する。いわゆるストロー効果だ。権堂の飲み屋で働いてなんとか食べていけた人も、結局はかけもちでもうひとつの仕事をしなければ生きていけなくなる。どこかにいるわれわれの敵、それが時間泥棒というわけだ。どうやら「時は金なり」では必ずしもないようだ。
ところで「時は金なり」という言葉は、アメリカ独立にも寄与したベンジャミン・フランクリンの文字通りの金言だ。「金」になる言葉という意味でも金言だ。20世紀初頭にドイツやイギリス、そしてアメリカでの資本主義の発展の秘密を解き明かそうとした有名な社会学者マックス・ヴェーバーは、まさにこの「時は金なり」こそ資本主義の要諦と看破した。翻訳も幾多ある『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』という名著でのことだ。その意味ではエンデの『モモ』は、まさにこの「時は金なり」への反抗という、それもまだそうした能率万能の世界に取り込まれていない子供や下層の人々による反抗という童話だ。
なんでも楽しい物語を発明するジジも、時間泥棒と契約をしてしまった。すると、話を簡単に作る術を覚え、ラジオ、テレビからひっぱりだこになる。過去に作った話を適当に組み合わせ、新しそうなインチキ童話や物語を作れば作るほど、ますます有名になる。誰も、その話が昔のそれの二番煎じや組み合わせであることまで調べて批判する「時間」がない。そして飛行機や宿の手配を全部してくれる美しい3人の女性秘書がジジの専用車の後部座席で彼の仕事ぶりを見張っている。
古代の円形劇場の遺跡といい、ニノの居酒屋といい、どこかイタリアの、それもローマ郊外を思い起こさせる。時間を節約して金持ちになったニノやジジが引っ越して住む高級住宅街もローマの新興住宅街を思わせる。実際にミヒャエル・エンデは能率的だが、どことなく情感の薄いドイツの生活への批判から、長いことイタリアで暮らし、そのイタリアへの感謝の思いからこの童話を書いたそうだ。
最後には時間の主人マイスター・ホラ(「ホラ」はホラ吹きのホラではなく、時間という言葉のラテン語、英語のhourにあたる)と彼の使者である亀のカシオペイアの助けを得ながら、モモは知恵を使って灰色の服の男たちの軍団を滅ぼす。彼らは一瞬の煙となって消えてしまう。その途中で出てくる「逆戻りの廊下」やマイスター・ホラの時間宮殿で渦巻の中から時間の光が湧いてくる光景などは、映画で見てもそうだが、かぎりなく幻想的で美しい。エンデはドイツに強かったマルクシズムなどの社会改革の運動が嫌いだった。学生運動の革命ごっこは欺瞞と見ていた。本当の改革は考え方の変革から出てくる、それは夢や幻想から始まる、という考え方だった。こうした考えからか、環境問題には大きな関心を抱いていた。『モモ』やその他の作品は揺籃期のドイツの「緑の党」の人々に広く読まれた。メルケル首相が原発廃止の決定をするのに大きく寄与した党である。
こうしたエンデの思想は20世紀初頭のドイツの思想家ルドルフ・シュタイナー(1861-1925)の人智学に学ぶところが多かっ た。ヴァルドルフ学校という、シュタイナーの作った自由学校運動は今では世界中に広がっている。日本ではシュタイナー学校とも言われている。シュタイナーが考案したオイリュトミー舞踏のことを聞いたことのある方も多いだろう。なにやら難しげに聞こえるが、「オイ」はギリシャ語の安楽や幸福や善を意味する言葉なので、「幸福リズム」とでも言えば実感がわくかもしれない。宇宙との交感を身体で受け止め、こころとからだの分裂を越えた一体感を得るための舞踏だそうだ。
どれだけ効き目があるかはしらないが、日本でもコースがあちこちで開かれているようだ。 ドイツで緑の党が強く、そのゆえに原発廃止が実現し、メルケル首相も元来は保守系なのに、クリーン・エネルギーを強力に推進していることは広く知られているが、その元祖の緑の党の草創期の人々には、その後外務大臣を長く務めたヨシュカ・フィッシャー氏をはじめ、このシュタイナー学校での薫陶を受けた人々が多い。その意味で、政治嫌いのエンデの作品もいろいろな意味で政治的な影響力を持ったようだ。
実はこの黒姫童話館にエンデの遺品が大量に納められているのには、信濃町からの働きかけを取り次いでくれた、子安美智子早稲田大学教授(1933~2017)の取りはからいが大きい。留学時代に小学生のお嬢さんが通ったシュタイナー学校の経験を記した彼女の『ミュンヘンの小学生』(中公新書1975年)は、ベストセラーになった。このシュタイナー教育との関連でエンデと知り合っていた子安さんは、もともと日本の文化に興味を抱いていたエンデが来日するたびに案内役をしていた。
1989年の春に来日したエンデを東京のホテルに訪ねたのが、信濃町役場の企画室に勤務しておられた山形一郎氏だ。氏は、その後黒姫童話館の主幹を務められた。エンデの通訳などもされていた子安美智子氏をいきなり訪れて、童話館の企画を詳述し、是非エンデ氏のスペースも作りたい、会わせてくれないかと、やがてエンデ氏にも見せることになる現場の航空写真なども使って熱心にお願いしたとのことだ。
しかし、山形氏が子安氏、そしてエンデに面会したのにはもうひとつ理由がある。黒姫に別荘を持っていた北欧文学の研究家で『ムーミン』の翻訳者である山室静(1906~2000)氏を訪問して、童話館のアイデアを相談した時に山室氏から「エンデは欠かせない」と言われて、にわか勉強をしたとのことだ(この辺のことは、童話館の『童話の森通信』10号の山形氏の回顧談に詳しい)。そして子安氏が山形氏の熱意をこれまた熱心にエンデに取り次いだところ、全面的に応援するとの快諾をいただいたとのこと。信濃町の町長さんに宛てた快諾の手紙も童話館に展示されている。
ちなみに前のドイツ人の夫人を亡くしていたエンデは、この1989年の4月に佐藤真理子氏と結婚しておられるので、日本との結びつきが強まったことも働いているかもしれない。しばらくして、エンデ自身が新婚の奥様ともども黒姫童話館を訪れたときの写真も展示されている。
実は、この子安さんは、年齢は少し上だが、筆者の学生時代からの友人で、その後も折にふれて会う機会が多かった。元気のいい、闊達な方だった。ご主人で日本思想の研究家である子安宣邦さんとは同じ大学の同僚で一緒にお仕事をさせていただいたこともある。
山形氏の文章によるとエンデを東京の宿に訪れたのが、1989年4月14日だそうだが、実はその数日前に筆者は頼まれて、岩波書店が当時熱海に持っていた別荘の惜櫟荘でエンデと大江健三郎の対話の司会と通訳を務めたことがある。これはNHK教育テレビで放送された。環境問題、自然と人間の関係そのほかをめぐっての対話だった。
このままで行くと温暖化で地球が破壊されるばかりか、人々が忙しさの中で人間性を失っていくと述べておられた。
30年も前の慧眼だ。そのエンデさんが対話の後の飲み会で、イタリアの生活を楽しそうに話していたのが、今でも思い浮かぶ。でも、その彼が実は結婚を数日後に控えていたことは教えてくれなかったし、この対話の数日後にやがて筆者も別荘を持つことになる信濃町の役場の方と会うことになるとはもちろん、考えもしなかった。不思議な縁だ。
なお、童話館には、エンデの手紙や原稿やメモ、またエンデの父が画家だった影響もあって、自らも描いたさまざまなスケッチや図案合わせて2千点以上が納められている。
展示されているのは、そのごく一部。残りは筆者も見ていないが、一般にドイツでは作家や思想家は、遺族が原稿や書簡など関係書類をひとまとめにして南ドイツの小さな町にある国立文学資料館に寄贈するのが普通だ。それをせずに、わざわざ信濃の山奥、越後との県境の山のミュージアムに寄贈してくれたのだから、大変なことだ。ドイツでのエンデの研究家は、資料調べに日本まで来なければならないことになった。
エンデは1995年8月になくなったが、その一周忌はミュンヘンの墓地の会堂で仏式によって執り行われた。司式をしたのは自ら僧侶の資格を持つドイツ人で早稲田大学教授だったクリストリープ・ヨープスト氏だった。日本語で「雄峰」の称号を持つ彼も、ナチスにいじめられた父親の影響もあって子供の頃からシュタイナーの人智学と仏教に興味を持っていたそうだ。これも不思議な縁だ。
東西交流の証でもある、そういう貴重な施設がわれらが信濃町にあるのだ。ゆったりした稜線を見ながら、時間泥棒に襲われない静かな散策の途上で是非なんどもおとずれていただきたい。そもそもわれわれがグリーンタウンを訪れるのは、時間泥棒からひとときでも逃げるためでもあるのだから。
(本来この記事は前号のために書くはずでしたが、新型コロナ・ウイルスの影響で、黒姫童話館もしばらく閉鎖されていたため、のびのびになりました。だいぶ前の見学のうろ覚えで書くわけには行きませんでした。今回訪れたら、畏友の故子安美智子さんの胸像も展示されていて感無量でした)
※エッセイ集
(野尻湖・黒姫・妙高にかかわった文人・墨客・市井の人々)
【「舞踏会の手帳」と野尻湖】執筆:三島憲一
戦前のフランス映画『舞踏会の手帖』を覚えている方はもう少ないかもしれない。それでも、伝説の名画としてテレビなどで繰り返し放映されていたので、見ておられる方もそれなりにおられるのではないだろうか。見た方は、北イタリアのコモ湖畔に立ち並ぶ豪邸のイメージが残っているはずだ。一階のサロンから、大理石の階段が数段、直接水面に達している。階段の同じく大理石の手すりには花の溢れる植木鉢。その横のテラスでは着飾った男女がグラスを傾けながら談笑。湖上のヨットのはるか向こうにはアルプスの山々が見える。ヨーロッパでも最も美しい地域での我々庶民には無縁の世界だろう。映画は、舞踏会にデビューした16歳のお嬢様クリスティーヌの手帳に「あなたをいつまでも愛します」と偽りの誓いを書き込んでくれた10人近くの踊りの相手を20年後に探し当て、訪ねて行く話。気のそまない結婚をした金持ちの亭主が(幸いにも?)亡くなったあとのこと。探し当てた相手は、神父になっているのもいれば、アルプスのガイドもいた。犯罪者もいる。田舎町の町長になっていたもう一人はたずねあてたその日が彼の結婚式。自殺者もいた。風光明媚なコモ湖と豪華なヴィラの裏の現実は結構侘しいものがある。それでも全編に流れる舞踏会のロマンチックなワルツと相まって、一昔前の世界が蘇る。
ジュリアン・デュヴィヴィエ監督のこの映画が作られたのは、1937年、つまり昭和12年のことだ。前にこの「グリーンタウン通信」でご紹介した堀辰雄夫妻の晩夏の野尻湖来訪と同じ年だ。ドイツではナチスが台頭し、1939年9月に始まる第二次大戦の暗雲が地平線に湧き上がり出していた頃だ。日本でもすでに満州事変から日中戦争と、世間は暗かった。そんな時期に、過ぎ去りつつあるヨーロッパの華麗な世界、多くの人が憧れたその世界と人生の哀感を兼ねあわせたこの映画は、日本でもものすごい観客動員数だったとか。そもそもこの監督は日本では圧倒的な人気があって、フランスの映画研究者もおどろくほどとのことだ。
湖畔に大金持ちの邸宅が並ぶコモ湖とわたしたちの野尻湖では、この次元では比較にならない。湖としても琵琶湖よりも大きい。近くのラゴマジョーレと並んで、ヨーロッパでも最も美しくかつ華麗なところだ。とはいえ、堀辰雄の文章もそうだったが、まだまだ貧しかった日本では、野尻湖の国際村の外国人たちの生活がまだ見ぬヨーロッパを連想させたようだ。いつだったか『信濃毎日新聞』に戦前に国際村の外国人の家に女中さんとして働きに行っていた地元の女性が、彼らが午後のお茶に食べていた自家製のケーキのはなやかさにたまげた話が出ていたが、そのとおりだったろう。記事の最後には、今では地元でも買える洋菓子を、今度は外国人の宣教師が円高で「高くて買えない」と嘆いているおちがついていたが。
脱線したが元に戻そう。湖畔の外国人の生活と対岸にあった野尻湖ホテルの様子をコモ湖に見立てて、1941年の秋に来訪した文学青年がいた。堀辰雄を師と仰ぐ、加藤周一だ。ままだ東大医学部の学生だった。その後は、戦後早くヨーロッパに留学し、英語、ドイツ語、フランス語を自由に操り、ブリティッシュ・コロンビア大学、ベルリン自由大学をはじめ各地の有名大学でも教える一方、文芸評論家として活躍しながら『日本文学史序説』の大著をものし、外国では「普遍的天才」と言われることになった彼だ。朝日新聞に長く連載していた『夕陽妄語』はドイツ語訳もある。
その彼に、映画『舞踏会の手帖』と野尻湖ホテルについて記した文章があるので、少し長いが引いてみよう。くだんの映画が作られた4年後の1941年(昭和16年)の12月末である。すでにドイツ軍はパリを落としており、デュヴィヴィエ監督はアメリカに亡命していた。
「私は二三年前に一度見たフィルムを、場末の映画館で見た。・・・私の青春を探す旅と[主人公が]云っている。・・・豪華なシャトオの内部。肘掛椅子の女。カメラは退き、回転し始める。柱、ピアノ、窓、湖、庭園と噴水。湖とそれを囲む丘は、急に野尻湖の秋を呼びさます。今年の初秋、私はホテルの見晴し台にひとりだった。湖は空を映し、その深い藍色とヴェールのように漂う白い雲とを見つめていると、ヨットの歌声が昇ってきた。秋の丘は赤い屋根の家々を散りばめて、湖の向こうに、風景の奥に眠ってでもいるように、静かだった。その湖の色、その山の波、そのヨットのソプラノのトレモロ。私は一人でjeunessse(青春)と云う考えにふけったものだ。その考えの甘美さがふと野尻の風景とスクリーンのコモ湖と、折り重なって、浮かんでくる」(鷲巣力・飯田侑子編『加藤周一。青春ノート』人文書院270ページ)。
ここに出てくる「ホテル」とは、現在のレイクサイドホテルから周遊道路が急坂となって上り詰めた右側にかつて立っていた野尻湖ホテルのことだろう。対岸に「赤い屋根の」家々の国際村が見える。日本のホテルとしては数少ない藁葺き屋根で、中は西洋風の大きなフォアイエ、二階には暖炉が一隅にある、渋い板張りの見晴らしのいいサロンが目立つ。湖上や対岸の国際村のプロムナードから見ると木組みと白壁が素敵なホテルだった。加藤周一はそこに泊まっていたようだ。1919年生まれだから22歳。贅沢といえば贅沢だ。野尻湖ホテルは水面からだいぶ高いところにあるので、湖上のヨットの歌が本当に聞こえてくるものかどうか。それに私も野尻湖でだいぶヨットはしているが、ソプラノの歌など聞こえてきたためしはない。ダミ声で北欧の民謡らしきものを歌っている外国人の操るヨットとすれ違って手を振ったことはあるが。多少とも文学青年の創作のようだが、卒業旅行でヨーロッパに行くなど思いもよらない暗い時代に西洋へのロマンチックな憧れを国際村のヨットと重ね合わせたのは、無理もないかもしれない。かなり夢見心地だったのだろう。
このホテルは1933年(昭和8年)に国策として建てられた。満州進出などで逼迫する財政事情を踏まえて、外国人観光客を呼び込んで、外貨を獲得するべく苦肉の策で国が主導していくつかのいわゆる「国際観光ホテル」を作った。志賀高原ホテル、川奈ホテル、そして赤倉観光ホテルもそうだ。赤倉のホテルは、残念ながら1965年に火事で焼失している。どれも和洋を巧みにないまぜたスタイルで、雰囲気のあるものだ(野尻湖ホテルのかつての姿はネットですぐに検索可能)。しかし、出来あがった頃は、国際情勢が風雲急を告げていて、外国人も観光どころではなく、「武士の商法」ならぬ「官僚の商法」だったようだ。それでも戦後はそれなりに繁盛していたようで、1999年にグリータウンに家を建てたときに、私もサロンまで上がったことがある。素晴らしい風景だった。湖上のヨットからも目印としてよかったのだが、やがて営業をやめてしまい、紆余曲折の末、2003年春には取り壊されてしまった。跡地に立ち入って景色を楽しんでいた観光客に巨木が倒れて悲惨な事故となったのは、2016年秋のこと、まだ記憶に新しい。
加藤に戻ると、先に引いたノートが書かれたのは、1941年(昭和16年)末とあるから真珠湾攻撃の二週間ちょっとあとのことのようだ。彼は続けて書いている。「[最初に見た]三年前とは世界が変わった。デュヴィヴィエもおそらく二度とフランスでは仕事はできないだろう。彼の描いた人物たちの過去は、今やフランスの過去となった」(同書272ページ)。ちょっと気障だが、ナチスに潰されたひとつの時代を思うのは、わからないことはない。
加藤は信州を愛したようだ。自伝の『羊の歌』(岩波新書)には、学生時代に夏をすごし、疎開先にもなった追分の風物が、盛んに出てくる。軽井沢のテニスコート、浅間の風景、白樺の林など。しかし、残念ながら野尻湖は出てこない。先に引いた『青春ノート』の一節は、夏の軽井沢が終わってから、野尻湖に足を伸ばしたときのことかもしれない。加藤には他に『高原好日』と題した信州の思い出が信濃毎日新聞社で出ているが、筆者は今、外国にいるので、残念ながら見ることができない。ひょっとするとそこには野尻の思い出があるかもしれない。
そこで別の話題にしよう。映画『舞踏会の手帖』が作られ、堀辰雄夫妻が野尻湖に来たちょうどその頃、正確には夫妻の野尻来訪の二週間ちょっと前、野尻湖に滞在していたフランスの若い学者がパリの友人に手紙を書いていた。その一節を紹介しよう。
親愛なるビュオー様 野尻1937年8月1日
今、長野県にある野尻湖の岸辺であなたにこの手紙を書いています。時間がどんどん過ぎていきます。最も生き生きした印象は、するべき仕事のあまりの多さです。今晩、貴兄の質問一覧に目を通しているうちに、質問へのお返事というよりも、貴兄の研究室にいるかのような感じで、日本について少しお話をしたくなりました。
3ヶ月間東大の研究室と帝室博物館にいましたが、大きな問題の解決には至りませんでした。とはいえ、いくつかの細かい問題は解くことができました。そこでは見たかったものを見ることができました。つまり先史時代の発掘場所で見つかった材料です。少なくとも北の地域のそれです。すなわち骨、鹿の角、針、錐、環、模様のついた管などです。まだそこからいかなる結論も出すことはできず、専門家に色々と質問をしている最中です。唯一見ることができたもので、アイヌのものはきわめて曖昧です。私はこの問題に特に注目したいと思いますが、仕事は相当にハードです。アイヌの占める割合は、ご承知のようにちょっと目にはかなり薄く見えます。現在のアイヌは昔のアイヌの、それも間接的な子孫の子孫です。でももう少し様子を見てみようではありませんか。アイヌに北方の影響がどのくらいあるかという問題はアイヌを調べるだけでは解決できません。私が好きで集めてきた千島列島、カムチャッカ、アリューシャンなどのものが毎日豊かになっていることはたしかです。ひょっとしてあなたの研究対象のハイダ族(注:カナダのブリティシュ・コロンビアの先住民族。その集落と芸術はユネスコの世界遺産。特に細かい木彫で知られる)の水車に水をもっていけるかもしれません。
それであなたの質問に答えましょう。
住居について。まずは野尻の場所の大枠についてほんの少し話しましょう。穏やかな波の光が、繋がった部屋の中、そして暖炉のところまで反射しています。私は佐渡に近いところにいます。多分佐渡にも近いうちにいくことでしょう。
貝を模倣した石の細工について。お送りするのは帝室博物館の三つの絵葉書です。石の輪(一番目の絵葉書)は、確実にブレスレットでしょう。わたしもなんどかいじってみました。灰緑色の素材に掘ってあり、とても軽いです。第二の絵葉書にある他のものとおなじに、こうした品物は、北の方の青銅の地域と南の方の青銅と鉄の日本型タイプの混合地域の間で、青銅器とともに見つかったものです。
このあと専門的な話が続くので、引用は、この辺にしておこう。専門的な話とは、この手紙の筆者のフランスの人類学者が当時集中していたアイヌの起源の問題で私には手に負えない。この手紙の筆者は、アンドレ・ルロワ=グーラン(1911~1986)。のちにソルボンヌやコレージュ・ド・フランスの教授も務めたフランスを代表する天才的な人類学者の若き日のことだ。大学ではロシア語、中国語を収めていた。漢字が読めた以上、日本でも言葉は早く学んだことは想像に難くない。新婚の奥さんと一緒の日本留学は日本政府の基金で、滞在中は主として京都の日仏会館に住みながら、信州、北海道、そして当時の東京帝大を行き来していたようだ。信州では、避暑がてら野尻周辺の遺跡や風俗を研究していた。死後だいぶ経って出た『日本についての忘れられた紙片Pages oubiées sur le Japon』(2004年)という滞日ノートには、野尻湖の弁天島の宇賀神社の祭り、桟橋に立ってお祓いをする神主さん、盆踊り、野尻周辺の庚申塚などの写真がたくさん掲載されている。中でも立ち並ぶ古民家の写真などは、そのほとんどがなくなってしまった今では、貴重なものだ。ドイツの友人の家の書棚に目を走らせていたときに、なんとなく表題に惹きつけられて開いたこの本の最初のページが、野尻湖からの手紙だったのに驚いたのは、もう5年ほど前のことだ。「穏やかな波の光が、繋がった部屋の中、そして暖炉のところまで反射しています」だけでは、どこに滞在していたかは、残念ながらわからないが、野尻湖ホテルだった可能性もそれなりに高そうだ。
ルロワ=グーラン氏は独仏開戦前にパリに戻り、戦争中はフランスの対独レジスタンスに参加し、戦後はその功績でレジオン・ドヌール勲章ももらっている。人類の発展過程を書いたいくつかの書は、20世紀の古典というに等しい(一部だが翻訳もある)。その彼が、堀辰雄夫妻の来た1937年8月にやはり野尻湖に滞在し、日本の古い生活を調査していたのだ。数年後には若き加藤周一が来訪した。そして戦争が始まり、人類学者のルロワ=グーラン氏はドイツへのレジスタンスに加わってフランスの農村で銃を取り、加藤は、東大医学部の医局にあって空襲の負傷者の治療に昼夜兼行で働き(その辺りは『羊の歌』に出てくる)・・・と、それぞれ人生が分かれていくことになる。
冒頭に戻ろう。コモ湖畔のシャトーだかヴィラだか知らないが、豪邸群は今でも健在のようだが、住んでいるのは、有名なサッカー選手と映画俳優ばかりとか。一部はアメリカの名門大学の夏合宿の施設となっている。変わり果てたのは、舞踏会の踊りの相手と野尻湖ホテルだけではないようだ。過去は過去だから、回想されるのだ。
※エッセイ集
(野尻湖・黒姫・妙高にかかわった文人・墨客・市井の人々)
ライブカメラ
野尻湖グリーンタウン神山ロッヂに設置されたカメラからの3分ごとのライブ映像
美山ライブカメラ
野尻湖グリーンタウン美山ロッヂに設置されたカメラの映像
ブログカテゴリー
- 今日の野尻湖 (137)
- 堀辰雄の野尻湖訪問 (1)
- ニュース (172)
- お知らせ (112)
- 地域情報 (270)
- イベント情報 (66)
- イベント・行事報告 (58)
- メール投稿 (4)
- 未分類 (8)
年月アーカイブ
- 2024年9月 (2)
- 2024年8月 (1)
- 2024年7月 (2)
- 2024年6月 (3)
- 2024年5月 (3)
- 2024年4月 (1)
- 2024年1月 (1)
- 2023年12月 (6)
- 2023年11月 (18)
- 2023年10月 (11)
- 2023年9月 (7)
- 2023年8月 (4)
- 2023年7月 (8)
- 2023年6月 (4)
- 2023年5月 (6)
- 2023年4月 (9)
- 2023年3月 (6)
- 2023年2月 (9)
- 2023年1月 (12)
- 2022年12月 (12)
- 2022年11月 (2)
- 2022年10月 (5)
- 2022年9月 (4)
- 2022年8月 (3)
- 2022年7月 (4)
- 2022年6月 (6)
- 2022年5月 (5)
- 2022年4月 (8)
- 2022年3月 (2)
- 2022年2月 (2)
- 2022年1月 (4)
- 2021年12月 (6)
- 2021年11月 (5)
- 2021年10月 (4)
- 2021年9月 (4)
- 2021年8月 (2)
- 2021年7月 (2)
- 2021年6月 (2)
- 2021年5月 (3)
- 2021年4月 (5)
- 2021年3月 (1)
- 2021年2月 (4)
- 2021年1月 (5)
- 2020年12月 (6)
- 2020年11月 (4)
- 2020年10月 (5)
- 2020年9月 (2)
- 2020年8月 (4)
- 2020年7月 (2)
- 2020年6月 (6)
- 2020年5月 (7)
- 2020年4月 (1)
- 2020年3月 (1)
- 2020年1月 (5)
- 2019年12月 (7)
- 2019年11月 (2)
- 2019年10月 (4)
- 2019年9月 (1)
- 2019年8月 (1)
- 2019年7月 (2)
- 2019年6月 (2)
- 2019年5月 (2)
- 2019年4月 (1)
- 2019年3月 (1)
- 2019年2月 (3)
- 2019年1月 (4)
- 2018年12月 (4)
- 2018年11月 (2)
- 2018年10月 (1)
- 2018年9月 (1)
- 2018年8月 (2)
- 2018年7月 (10)
- 2018年6月 (2)
- 2018年5月 (2)
- 2018年3月 (1)
- 2018年2月 (1)
- 2018年1月 (2)
- 2017年11月 (1)
- 2017年6月 (1)
- 2017年5月 (1)
- 2017年2月 (1)
- 2017年1月 (3)
- 2016年11月 (1)
- 2016年7月 (2)
- 2016年6月 (1)
- 2016年5月 (4)
- 2016年4月 (3)
- 2016年1月 (3)
- 2015年11月 (2)
- 2015年3月 (1)
- 2015年2月 (1)
- 2014年11月 (1)
- 2014年9月 (1)
- 2014年7月 (1)
- 2014年6月 (3)
- 2014年5月 (3)
- 2014年4月 (1)
- 2013年5月 (1)
- 2012年12月 (1)
- 2012年10月 (1)
- 2012年9月 (1)
- 2012年8月 (1)
- 2012年7月 (4)
- 2012年6月 (1)
- 2012年4月 (4)
- 2012年3月 (5)
- 2012年2月 (4)
- 2012年1月 (3)
- 2011年12月 (3)
- 2011年11月 (3)
- 2011年10月 (7)
- 2011年9月 (6)
- 2011年8月 (6)
- 2011年7月 (10)
- 2011年6月 (3)
- 2011年5月 (1)
- 2011年3月 (2)
- 2011年1月 (1)
- 2010年12月 (1)
- 2010年11月 (1)
- 2010年10月 (4)
- 2010年9月 (2)
- 2010年8月 (2)
- 2010年5月 (6)
- 2010年4月 (2)
- 2010年3月 (2)
- 2010年2月 (3)
- 2010年1月 (3)
- 2009年11月 (4)
- 2009年10月 (3)
- 2009年8月 (3)
- 2009年6月 (1)
- 2009年5月 (2)
- 2009年4月 (2)
- 2009年3月 (1)
- 2009年2月 (1)
- 2009年1月 (4)
- 2008年12月 (5)
- 2008年11月 (1)
- 2008年10月 (6)
- 2008年9月 (3)
- 2008年8月 (5)
- 2008年7月 (7)
- 2008年6月 (2)
- 2008年5月 (6)
- 2008年4月 (2)
- 2008年3月 (2)
- 2008年2月 (2)
- 2008年1月 (8)
- 2007年12月 (2)
- 2007年11月 (5)
- 2007年10月 (1)
- 2007年8月 (9)
- 2007年5月 (1)