【中勘助の弁天島生活】執筆:三島憲一
前回は、野尻の公民館前の駐車場脇にある中勘助の石碑を紹介した。あまりにも有名な『銀の匙』の舞台は主として神田から小石川だが、執筆された場所は1912年(大正元年)の野尻湖の湖畔だ。書きながら湖面の動きに目をやり、あるいはふり返って妙高や黒姫を眺めていたことだろう。そして前回の最後に触れたが、その前年、1911年(明治44年)6月に一年志願兵(「一年志願兵」とは明治の日本がドイツ帝国から学んだ制度で、これを経て士官に任官されて沙婆に戻ると「一人前」となる)として勤務していた近衛歩兵第四聯隊を除隊した中勘助は、9月末から10月にかけて弁天島に篭った。その後も比叡山の横川などに篭っているから、よほど篭るのが好きだったらしい。ちなみに黒姫駅前の藤野屋旅館ができたのが、その前年の明治43年だそうだ。
弁天島での数週間の日記を「島守」と題して他の作品とともに岩波書店から出版している。秋の野尻の風景、白根方向からの吹き下ろし、妙高方面からの強い北風。乱れ飛ぶ雲、黒姫山麓に立ち登る炭焼きの煙、夜半の嵐、湖面を叩く雨脚など、自然の風景が、そこに暮らす人々の点描とともに活写されている。これは筆者の推測だが、すでに出ていた国木田独歩の『武蔵野』(1898年、明治31年)などからもヒントを得たのかもしれない。自然の描き方がどことなく似ている。あるいは、秋の日本の自然はどこも似ているから結果としてそう見えるだけかもしれない。いずれにしてもどちらも自然の中に一人歩む、それを文章にするという明治ロマン主義の躍如たる名文だ。
あとはしめじの話とか、麦醤油の話題、そして貰った鯉を煮て食べる話、枝豆を茹でる夕刻とか、当時の食生活も多少わかる。ニワトリの肉は出てくるが、牛や豚の肉のはなしはないし、スパゲッティやオリーブ油の話題は出てくるわけもない。
今回は、文庫本で40ページほどの「島守」から数カ所を、途中に注と感想を入れながら紹介するにとどめたい。気に入った方は岩波文庫で手に入るので、中勘助の文章を通じて、慣れ親しんだ野尻の風景を味わっていただければ、さいわいだ。折りから秋が深まる頃だ。
明治44年9月23日
蓑笠をつけた本陣に先導をたのんでひどい吹きぶりのなかを島へわたった。これから私の住居となる家は年に一度の祭礼に遠方からくる神官の泊るために建てたもので、羽目板はところどころずり落ち雨戸もまだついていないゆえほんの雨つゆのしのぎになるばかり、夏が過ぎればすぐ冬になるならいの山国の湖のなかにただひとつ浮いて出たようなこの島をめがけて周囲の山やまからおしよせてくる寒さをこの都人に防いでくれるほどの用にも立たない。積んである畳を幾枚か家のなかほどにしいて座敷とし、かたかたの床には白木造りの神輿、かたかたには炊事の道具をならべ、畳の黴をふき、あたりの塵を払ってみれば思ったより住みごこちのいい住居になった。梁の上には笠鉾、万燈、枝と縄と藁で面白い粗野な織物になってる屋根裏からは太鼓、提灯などがぶらさがっている。本陣はそとから板屑を拾ってきて焚きつけをこしらえ、米はこのくらいに、水はこれくらいに、火はこうして、と懇に教えながら昼飯の支度をして、やがて飯ができたのでちょこなんと畏って給仕をしてくれる。それから南の浜へおりて器を洗うなどひととおり用事をすませたのち 「ごはんが残ったらおじやにしておあがりなさい」 といって帰っていった。あとに残った私は、これでいよいよ独りになった、と思った。
[国語の先生なら、ふりがなの試験に出したい字がいっぱいだ。漢字を読みまちがうことの多いこの国の二人の元首相を含む政治家たちにも試験してみたい。畳の黴の処理はグリーンタウンの皆さんならどなたも経験がありそうだ。このあとの日々は、島に行く前に泊めてもらい、郵便の受け取りなども依頼していた安養寺(旧18号線沿いに今でもあるが、かなり荒れている)に挨拶に行き、そこで本陣の池田さんとおしゃべりをしていると、葉書が来て、九州に嫁いでいる妹の危篤のしらせ、などの記述がある。ただその数日後には、幸いなことに回復しつつあるという葉書きも受け取っている。朝起きて顔を洗うのも、米をとぐのも、食器を洗うのも、すべて野尻湖の湖水を使う生活だ。今なら環境保護ナンバーワン]
10月2日
朝。鳥は山をこえる朝の光をみて さめよ さめよ さめよ と呼ぶ。呼ばれてさめるものはこの島に私ひとりである。そうしてさめて四周の清浄なことを思って心から満足をおぼえる。闊葉樹の葉ごしに緑の光がさして切るような朝の気が音もなく流れてくる。崖をおりて浜へ出る。村のひとたちはまだ起きたばかりであろう。湖にも丘にも影がみえない。
食後、桟橋へ出る。斑尾の道を豆ほどの荷馬がゆき、杉窪を菅笠がのぼってゆくのは蕎麦を刈るのであろう。そのわきには焦げ茶色の粟畑とみずみずしい黍畑がみえ、湖辺の稲田は煙るように光り、北の岡の雑木の緑に朱をおりまぜた漆までが手にとるようにみえる。妙高、黒姫も峰のほうはいつしか黄葉しはじめた。曳かれてゆく家畜のように列をなして黒姫から飯綱へかけて断続した朝の雲がゆく。水の底が遠くまで透けて日光につくられた金いろの網がぶわぶわとゆらぎ、根こぎにされた水草の芽が浮きもせず沈みもせずにゆらゆらと漂いあるく。
南の岡へゆこうとおもって島をでる。池田さんへ寄ったらほかほか湯気の立つ箕のそばでおばあさんが麦を蒸していた。ねせておいて醤油をつくるのだそうだ。秣山へゆく道は灌木の岡にそうて陰になり日向になりうねうねとうねってゆく。人どおりのないのと岡がせまってるのとで斑尾の道よりいっそう淋しい。たまにゆきあうお百姓たちも村の人ではあろうが見知らぬ顔ばかりである。
とある山陰で粗朶を背負ってくる娘さんに逢った。十六、七の痩せぎすで、まみえと目のあいだにほんのり上気して、色白の頬に汗がひとすじ流れていた。彼女は小鳥かなぞのようにおじけてちらりと見た眼を胸のへんにつけながらおずおずとすぎていった。田の畦や湖ぎわに枸杞もまじって赤い実が沢山なってるのをよくみればひとつひとつ木がちがう。
秣山 ―南の岡― は美しい岡である。まどろむように横わった草山のあちらこちらに落葉したのや黄葉しかけた灌木が小松の緑にまじってるのがちょうどいろいろの貴い毛皮をもった獣が自然に睦あって草をくってるようにみえる。羊歯は枯れたが女郎花はまだ咲きのこっている。うす紫の小鈴をつらねた花の名はなにか。松虫草のなかをゆくと虻の群が一斉に羽音をたてて飛びあがる。風がないので日は春のように暖い。萩、うるしがもみじして柏の葉がてらてらと日を照りかえす。あらまし葉を落した山つつじの灰色の幹の群立ちも美しい。滑かな窪地をとおして帯のように雑木が繫ってるのは清水の流があるのだ。草のうえに横になってうっとり眺めてると山やまの嶺に雲が自らに湧いてまた自らにきえてゆく。
[杉窪は「杉久保ハウス」などを通じてなじみの地名だ。昔は「窪」の字を使っていたらしい。「斑尾の道」とはどの道のことだろう。湖畔道路からほとり荘の少し前を斑尾の方に曲がっていく通りのことだろうか。当時は人が歩いて通るだけの道だったことは十分想像できる。ただ、この日記の全体の使い方から見ると、湖畔のほとり荘やレイクサイドのある道路、つまり島の北側の道路を指しているようでもある。蕎麦も今は機械で刈るが、つい最近までは鎌だったはずだ。粟や黍(キビ)は今では見かけないが、当時の食生活を忍ばせる。農村の子供たちは、軍隊に入ってはじめて毎日白米を食べられた時代だ。麦を蒸して麦醤油を作るお婆さんは、明治44年だから、江戸時代の天保・弘化・嘉永年間ぐらいの生まれだろう。「秣山(まぐさやま)」とはどこの山だろう?「南の岡」ともあるから、「まどろむように横わった」という形容から見て、今の国際村の山、つまり神山のようだ。当時はこういう名称だったのだろうか。古老にきいてみたいものだ。「もみじする」などという紅葉を一般化した動詞用法は、中勘助の創作なのか、明治の日本語ではふつうだったのか]
10月3日
夜なかから嵐になった。目をさましたら障子がはずれてるので起きて縄でからげた。枝の音、島の根を打つ波の音、吹き落とされた鳥のあわただしい鳴声がする。 白根颪が強く吹く日には南の浜は水が濁るので北浦の水をくむ。 夕。一日吹きまくった風がぱったりやんだ。わずかに日がさして山も水もしずまりかえっている。と思うまに北風がごうごうと雨をさそってきた。湖水に風脚がみえて日が恐ろしく暮れてゆく。
[南の浜とは、島から見て砂間館側の浜のこと。たしかに南風のときは、島の南側には色々ゴミが吹き寄せられるだろう]。
10月11日
朝。小雨のなかを本陣が菜と雉笛と大笊に一杯のしめじをもってきてくれた。本陣はくるたんびになにかしら山里らしい話を積んでくる。しめじはこのへんでいちばんいい茸だということ、なに茸とかいって傘の茎が一尺もある気味の悪いのもたべるということなど。
ゆうべのうちに山へ雪がきた。妙高に三度ふれば里にもくるといういいつたえで村は今草刈りのおわり、とり入れのはじまりで大騒ぎだ、という。十二日の秋祭 ― 祭とは名ばかりでこれということもない。― までに草を刈りおえ、新そばをたべ、収穫をはじめて霜月のなかばまでに凡ての農事をしまい、それから人びとは身も心ものびのびとして思いおもいの温泉へゆく。(以下略)
[この秋祭とはいつまでやっていたのだろう。8月の末の祭りはいまでもやっているようだが、これも1980年代はとても賑った。もっともYouTubeでは「信州信濃町 秋の獅子舞」で検索すると数年前の屋内での祭の様子も見ることができるが(https://www.youtube.com/watch?v=ucIA9Vmuj0M)]
10月12日
秋祭。朝本陣が迎いにきた。
斑尾の道をあるく。黍畑はいつまでも若わかしい緑色をしている。粟畑は濃い海老色になってもまだ刈られない。きのう菅笠のみえたあたりは一段ほどの稲がふり干しにされている。足の疲れたところからひきかえして村へはいるときちょうど托鉢の尼さんが読経をおえてある家の軒下からこちらへくるところだった。私はすれちがいながらなにげなく深い笠のうちをみた。染めたようや豊かな頬や、読経のために充血した唇や、岩間を清水の流れてゆく尼僧の境涯には涙なしには住めまいほどなまめいている。これからどこをまわるのか斑尾の道のほうへいった。
かねて招かれてた本陣のところへいって鳥鍋で焼酎をのむ。本陣は少しばかりの焼酎に酔い猩猩みたいになって 「先生 もう舟がこげません」 という。(以下略)。
[『銀の匙』は幼少時から関わりがあったが、特に親しくなれなかった女性たちの思い出を綴っているが、この日記でも、尼僧であったり、歯朶を背負った若い女性であったり、似たような思いが軽く触れられている。戦前の青年はいささか単純でロマンチックだったようだ]
次回は、池の平そのほかあちこちにある明治の歌人与謝野晶子の歌碑について書いてみたい。雪の来る前に調査がまにあうかどうか心もとないが・・・。
※エッセイ集
(野尻湖・黒姫・妙高にかかわった文人・墨客・市井の人々)
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野尻湖グリーンタウン神山ロッヂに設置されたカメラからの3分ごとのライブ映像
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